第一章『プロ教師とシロウト教師を見分ける7か条』

Ⅰ「7カ条を選ぶ基準は何か?」

(1)「歴史は広義の創造力、情報駆使力を求めている!」
プロ教師の第一の条件は教育の歴史的課題を意識して、その課題を授業で消化するスキルをもっているかどうかです。
高度情報化社会が到来して、「時間と空間」のカベが取り払われ、社会全体のわく組みが根本的に変わろうとしています。企業にとってはもちろん、私たち個人にとっても、情報伝達の時間較差や情報量較差がなくなりつつあるのです。カンタンに言えば、誰もが必要な情報を、いつでも、どこでも、その上ゼロに近い費用で入手できる条件が整いつつあると言えます。

このように社会が変わった、あるいは変わろうとしている結果、これまで重視されてきた「情報をより多く、よく早く、よく正確に身につける能力(「追いつき型能力」といわれる)は急速にスクラップ化(役に立たなくなる)しつつあります。明治以降、わが国は、欧米諸国に追いつくために、伝統的にこの「追いつき型」の能力が重視されていました。学校でも、この能力の高い子どもが「優秀な子ども」として評価されてきたのはご存じの通りです。

では、これからの時代、どのような能力が求められるようになるのでしょうか?
それは、すでに知っていて理解している情報(既知情報)のわくを革新する能力なのです。別な言い方をすれば「広義の創造力(発想力)」が価値を持つこととなるということです。どういうことかと言うと、既にあるもの(既知)をどれだけ効率よく吸収できるかという能力ではなく、いまだ知られていない情報をつくり出す能力が重要になっているということです。
もちろん、これは発明や、ビジネスモデルの創造などという大きな事がらについての話だけをしているのではありません。そうではなくて、日常の小さな工夫、改善の提案など、私たちの日常の生活や仕事などの場面についても言えることなのです。

 

1.「創造力は情報駆使力を前提とする!」
知らないことを知るようになるためには、どうしたらよいのでしょうか。
もちろん、白紙のキャンバスの上に自然に新しい知識が描かれる、なんてことは決してあり得ません。すでに知っている情報(既知情報)に、これまで知らなかった新たな知(未知情報)が追加されるのは、どのようになされるのでしょうか。既存の情報(情報駆使)で解決できない課題があったとします。まず既知情報のわく内で解決できない問題点がしぼりこまれ、更にその解決に結びつく可能性の高い既知情報が選別されます。そして既知情報の中で「これまで存在しなかった情報結合」ができたり、既知情報の外の新たな知と既知情報を結合することで問題解決がなされていくわけです。

即ちいずれの場合でも「新たな知の創造」は、既存の情報の上に描かれるということなのです。ですから、既存の情報をどのように使いこなすかという能力(情報駆使能力)こそが、これからの時代で私たちに求められる能力と言えるのです。ですから、これを子どもたちの学習に引きつけて考えれば、「情報駆使能力」こそ「授業で鍛えられるべき能力」の中枢をなすわけです。いわゆる「基礎基本、読み、書き、計算」は既知情報の骨格を成すもので非常に重要です。しかし一部に見られる「基礎基本がしっかりすれば応用もできるようになる」という種類の主張は誤りであると思います。「応用問題」を解く時に既知情報をどのように駆使するかという分野は、固有の教育課題であり独自の取り組みを必要とします。むしろ「基礎基本」分野は「情報駆視能力」をどのように鍛えるかという観点から位置ずけられるべきだと思います。

 

2.「情報駆使能力は授業で扱えるか?」
授業の目的とは何でしょうか。子どもたちは、毎日、学校などで授業を受けています。そもそも、なぜ、子どもたちは授業を受けているのでしょうか。

その答えは3つあります。1つは、「過去の人類の所産の継承」です。カンタンに言えば「知識を身につける」ことです。要は、数学や社会などの知識を学ぶことです。そして、その知識を子どもたち自身が受け継いで活用して、それを更に次の世代に引き継いでいくことです。2つ目はその時代が要請する能力の育成(現在では先に触れた広義の創造力、情報駆使能力)です。もう1つあります。それは、子どもがそれぞれ持っている固有の能力(個性)を引き出し、のばすことです。ただし現在では第三の教育目標としての子供の個性の育成は、第二の目標と大半で重なり合っています。

個性とはその人の回路の特殊性、特に『相対的に優位性を持つ自己回路』と考えられます。画一的回路を大量に作り出すのではなく、固有の回路(個性)を大事に育てることは未知の課題を解決する時の『優位性(強味)』を育てることに繋がります。即ちその人の固有の回路(個性)を育てることは、先ほど触れた第二の教育目標である『創造力、情報駆視能力』を育成することとほぼ一致しているのです。おそらく歴史的にはじめて『個性が歴史的に要請される能力と一致』したのです。つまり教育において、大きくみれば『建前ではなく本音(社会的価値をもつ)で個性を重視してもよい』時代が到来したというわけです。

したがって教育の目標は第一の「歴史の所産の継承」と、第二の歴史の要請する能力としての『創造力、情報駆使能力』の育成に絞って考えることができると思います。(ただしここでは芸術分野の能力開発については除外されています。)
今ここで述べた2つの教育目標は、統一的にはたされなければなりません。つまり知識の習得は、生徒固有の自己回路を重視する手法で実現されるべきだということです。

しかし、実際の授業においては、建て前はともかく、実際のところは前者の「知識」のみが重視されているのが実情です。多くの先生は知識の伝達には熱心です。しかし、後者の「能力開発」には熱心とはいえません。自分の仕事の範囲として責任を感じている人もごく少数です。
ちなみに、塾や学校などで行われるテストがその一例です。テストでは知識のみが測定されます。「情報駆使能力」は測定されません。ですから、その能力が開発されたのかどうか、それ自体があいまいなまま放置されているのです。これも、教師が第二の側面を、自分の仕事であり自分の責任範囲であるとは思わないことがひとつの原因となっています。昨今の国際比較テストで日本が劣っているのもまさにその第二の分野なのです。

それでは、どのようにしたら2つの教育課題は同時に達成することができるのでしょうか。それは、この両者は「統一的に果たされるべき」であるということを教師自身が認識することから始まります。
授業で教えられる新たな「知識」は生徒にとっては、そもそも未知のものです。生徒がその「知識」を獲得していくためには、まず、すでに知っている事がら(既知情報)との関連を明らかにする必要があります。
知らないことを知っていることにする(未知情報を既知情報にする)ためには、どこまでが自分にとって既知であり、どこからが未知でありことをはっきりさせなければなりません。

例えば、中2の連立方程式に導入場面を考えて見ます。1.文字が1つである方程式の解き方は知っていることの確認2.文字が2つあるから既習知では解けないというステージの確認3.既習知と結び付けるには文字を1つにすればよいことを引き出す。4.文字を1つにする方法として2つの方法があることを新知識として示す。1.は既知情報の中で課題と関連のある情報を探す場面で、2.は既習の知識ではなぜ課題が解決しないかの情報整理、3.は課題を既習の知識と結びつける方法への気ずき(子供にとっては小さな創造の場面)、4.はその気ずきへの具体的提案として新たな情報を提供する場面です。

即ち、本来、文字が1つの方程式と文字が2つの方程式とはつながりがあります。ですから、既知情報である前者を使いながら未知情報の後者を指導していけば、子どもの創造力や情報駆使力を開発していくことができます。(実際はこのような授業自体が、教師の一方的授業ではなく、2章で示される生徒主体の授業方法である問答法によってなされる必要があります。)
このように、既知情報をベースに、子どもが潜在的に持っている情報の駆使能力を働かせて未知情報を取り込めば、先程から述べている、「知識習得」と「情報駆使能力開発」が同時に可能になるのです。即ち授業という“場”では、この両者を同時に行うことが大切なのです。
そのために、教師は、授業において、子どもたちの「既知情報」範囲がどうなっているのかの確認から入ることになるわけです。今までに習った単元であっても、ある子どもは忘れているかもしれないし、ある子どもは理解が十分でなかったかもしれないからです。
ここで、一人ひとりの子どもの頭の中がどうなっているのかを確認するのは、もちろん教師の仕事です。そして、その既知情報の回路の中に、生徒一人ひとりの情報駆使力を活用しながら、新たな知をいかに深く、いかに速く組み込むかが教師の次の課題となるのです。(詳細は第Ⅱ章「問答法」を参照されたい)

 

3.「問題解決主体を教師から生徒へ!」
長年授業にたずさわってきて、数多くの学校の授業や塾の授業をみせてもらいました。その中には、ハッとする工夫や名人芸もあり大変刺激を受けたこともありました。しかし、実は、それらの授業の大半は、毎日学校や塾で行われるふつうの授業ではありませんでした。
学校や塾では、ふだんの授業とは別に、ある特別な研究目的で行われる「特別授業」というのがあります。この「特別授業」には外部の関係者が招かれて行われるのですが、このときに、その授業を担当する教師は特別な技術やノウハウを公開するのが一般的になっています。
しかし、この「特別授業」のときでさえも、日常普段着のスキルと結びつくものは少なかったというのが実情です。最も疑問に感じたのは、大半の授業が教師主体で進み、生徒はその補助的役割しか担っていなかったことです。
これらの授業では、本来、子どもたちが担う問題解決の主体が教師にありました。その結果、教師の考える思考回路に生徒が合わせる授業になっていました。質問も教師の回路に沿った答のみを求めるもので、生徒の回路を探り、生徒の回路に授業内容をくみこむという視点は皆無に近かったというのが実情でした。

(2)「授業の主要スキルのあることはプロ教師の条件である!」
プロ教師であるための第二の条件は授業一般の普遍的な重要スキルを身につけているということです。授業は『授業内容としての知』と『生徒(の状況)』とそれらを媒介する『教師』の3つの要素から形成されると考えられます。即ち生徒は教師を介して知を身につけるわけです。
教師が知の媒介者であるとすれば、教師のもっとも重要な資格要件は『知っていること』ではなく『知を媒介』する能力だということになります。即ち『知っていること』は必要条件にすぎず、『知の系統的理解を前提とする実践的授業スキル』が必要十分条件ということになります。
一言でいえば『わかりやすく、深く、印象深く、速く』生徒へ知を定着させるスキルが重要になります。特に子供にとって『わかりやすい』説明のできる教師であることは重要です。また生徒がつまずいた時に的確なアドバイスのできることも重要です。そのためには、教師自身に系統的知識と状況把握能力とコミュニケーション能力が備わっていなければなりません。

(3)「子供の内に『他者』を築く!」
生徒の内に実体的『他者』を築くことを意識し、その実現のためのスキルをもっていることが、プロ教師の第三の条件と考えます。コミュニケーション能力、いじめ、思いやり、やさしさの問題の背後には『他者の不在』の問題があります。
現在の子供の大半は動物や植物との豊富な接触体験を持たず、濃密な人間関係を伴う『遊び』もほとんど経験していません。したがって現代の子供の大半の中に『生命ある実体を伴う他者』が築かれていないのです。即ち自分以外の他者の気持ちや心理を‘自分のことのように’感じ取る能力が十分に育っていないということです。
学校や塾は生徒にとって重要な集団生活の場であり、学習だけでなく人間関係訓練の場でもあります。したがって授業や掃除、休み時間、各種行事を通じて『人間関係訓練、他者の構築』に意識的に取りくむ必要があります。この場合特に重要なのは他者を傷つける小さな言動に敏感に反応する教師自身の感性です。他人を尊重する空気をクラスの中に作っていくことができることがプロ教師の条件ということになります。(詳細は第四章を参照してください。)

 

II 『プロ教師を見分ける7ヵ条』

第一条「教師が2~3分以上も独演会を行っていないか?」―ボーッと聞いている子が複数いないか?―

これは教師が、教師の主要な役割を「知の伝達者」と考えている場合に起こりがちな授業です。「教師が教える主体であり、生徒は教えられる受身的存在」と考えている教師に起こりがちな授業だといえます。もし、教師の役割が、知の一方的伝達者であるのならば、本や問題集、あるいはテレビ講座やラジオ講座で事足りるわけです。
私は塾での授業を30年以上も続けています。塾の講師をお願いする場合、必ず厳しい模擬授業研修を行っています。その際あらかじめ「なるべく生徒に答えさせて、教師のしゃべる割合を減らして下さい」と指示して、私が先に授業をやってみせることにしています。
私が知る限りすべての教師は「教えたがる」傾向を持っています。そして、「正答を解説しながら教える」のが、授業の基本的あり方だという根強い刷りこみがあります。しかし独演会は子どもの回路を無視し、一方的に教師の回路に生徒をつき合わせる画一的回路形成のための典型的な授業スタイルです。画一的回路形成のための授業は『追いつき型』の能力育成の授業方法であり時代遅れということになります。
ここで、実際にあった模擬授業を「実況中継」の形で再現してみたいと思います。

(模擬授業実況中継)
A;新人教師 B;生徒 C;私(研修指導教師)
範囲 中一英語、3人称単数の練習問題

(a)生徒がどこでつまずいているかを探す場面
1.Bob and Mancy (like,likes)apples
A;「じゃ答は」
B;「わかりません」
A;「どこがわからないの」
B;「………」
A;ボブとナンシーで複数ですからlikeですね」
C;「先生はB君が主語が複数であることを見落としたからlikeが選択できなかったと考えたわけですね。でもB君は主語が3人称単数現在の時の動詞の変化を忘れているのかもしれません。あるいはB君はわからない単語があり日本語訳ができないのかもしれませんね。」
A;「では文法規則の確認からやればよいのでしょうか?」
C;「規則はしっているかもしれませんね。忘れているにしてもどの部分を忘れているかによって説明の重点がかわってきますよね。」
A;「じゃーどのように解説すべきなのでしょうか?」
C;「どこでつまずいているかは誰が知っているのですか」
A;「うーん、生徒ですか。」
C;「もちろん、生徒が自分の問題点を自覚しているとは限らないわけですから‘どこがわからないの’という質問は意味をなしません。ここで生徒がどこでつまずいているかを探るスキルが必要になります。まず何からきいていけば良いと思いますか。」
A;「規則の確認以外思いつきません」

C;「英語の文法問題でつまづいた場合、最初の問いは原則として『日本語に訳して』の指示です。日本語でどういう意味かわかなければ各種の解説は意味を持ちません。生徒の日本語訳の様子から不明な単語があるのか、主語、述語のイメージはどの程度あるかという重要な情報を探ることができます。」
A;「もう一度やってみます。和訳してみて。」
B;「ボブとナンシーはりんごが好きです。」
A;「じゃ答えは?」
C;「それはまずいでしょう。和訳ができるのに答えがでなかったわけですから、文法の規則があいまいである可能性が高いということがわかります。ここで規則の確認にはいるべきでしょう。」
A;「主語が3人称単数の時は動詞の語尾にーS、又はesがつきますね。」
C;「その子がどこでつまずいているかをさぐりあて、解説の焦点を意識して説明することが生徒の自己回路と切り結ぶということです。そんな一般的説明をくり返すだけなら参考書を読むのと変わりはなく教師のいる意味がありません。」A;「どのように質問すればよいのでしょうか。」
C;「生徒の問題意識に沿って、しかも系統的に問いを発するべきです。生徒はlikeとlikesのどちらだろうと考えているわけですから、その意識に沿ってlikesのように動詞の終わりにーSがつくのはどういう場合かと聞けばよいのでは」
A;「likesのように動詞の語尾にーS、ーesをつけるのはどういう場合?」
B;「主語が3人称、単数の時」
A;「いいですね。じゃーこの場合の主語は3人称単数になっていますか?」
B;「・・・・・」
C;「質問で誤りの原因をさぐる時、二つ以上の内容を含む質問をしてはいけません。必ず一つずつです。生徒が答えられない場合、その原因が二つのうちどちらなのかしぼり切れないからです。3人称と単数は別の概念ですよね」
A;「B君、じゃーもう一度ね。主語は?」
B;「ボブとナンシー」
A;「これは何人称?」
B;「・・・・・・」(ここで生徒が人称でつまずいていることが判明した)

(b)生徒のつまずいている部分に関わる知を生徒の回路に再構築する場面
A;「3人称ですよね。」
C;「まずいですよね。人称でつまずいているのが分っているわけですから1人称、2人称、3人称の区別を全体的に短時間で確認する必要があるでしょう。文法のまとめをここで開かせて目で確認させるべきですね。」
A;「1人称はIとWEで・・・」
C;「先生がおしゃべりする必要はないですよね。生徒は文法規則を一回は学んでおり、今またみているわけですからその内容を消化しているかどうか質問すればいいわけです。先生が説明したんでは消化できたかどうかはわかりませんから、再度確認しなければならなくなります。」
A;「じゃB君、1人称って何?」
C;「生徒は『サマリー』(文法規則をまとめ直したもの)を見ながらこたえるのですか、見ないで答えるのですか、どちらでもよいのですか。」
A;「意識していませんでした。」
C;「答える人は見ないで答えるのが原則です。素早く目を通し(他の人が当てられている場合はその間に目をとおす)、自分が答える時には見ないでこたえさせます。そのことで緊張感が維持され、又生徒の頭の中を一度通すことになります。その結果定着効率が大きく高まることになります。」
A;「もう1度やってみます。じゃーいくよ。1人称って何。」
B;「私、私達でIとwe」
A;「いいね。2人称は?」
B;「あなた、あなた達でyouとyou」
A;「3人称は?」
B;「その他」
A;「じゃー主語のボブとナンシーは何人称?」
C;「いいんですけどね、規則を覚える際は一気に一定のまとまったイメージをつくった方が定着がいいんですよね。この場合であれば1人称、2人称、3人称バラバラに質問したわけですから、最後に本人にまとめていわせた方が鮮明なイメージができますよね」
A;「じゃB君、1人称、2人称、3人称について自分で全部説明してみて」
B;「えーと。1人称は・・(正解)・・」
A;「いいですね。じゃ主語のボブとナンシーは何人称?」
B;「3人称」
A;「単数?複数?」
B「複数」

(c)実質上生徒が正答に達した段階で、関連する知を1つのまとまったイメージとして教師が描く場面
C;「ここで本人は一応の理解をしたので、やや部分に拡散した内容を鮮明に教師がまとめて答に結びつけるべきですね」
A;「動詞の語尾にーS、ーesをつけるのは主語が3人称でしかも単数の時だったね。どちらかではなく、3人称と単数という2つの条件がそろった時にーS、ーesがつくんだったね。じゃB君答えはどうなる?」
B;「like」

(d)一応答えが出た段階で、その理由が本当にわかっているか確認する場面
A;「何故likesはダメなの」
B;「主語が3人称だけど、単数ではなく複数だから」
C;「正答が出てもその根拠を聞き返すのはいいですね。これでこの問題は終了です。とにかく原則として先生はおしゃべりをせず生徒にきくこと。先生が説明しても生徒がどの部分を理解し、どの部分があいまいかの情報は得られません。結果として、生徒の回路との切り結びが保証されません。教師が主に説明するのは導入の時と一応答がでた段階で、答をだすために用いた情報を系統的に、鮮明に示すときです。」

(指導教師の授業)
「ここではじめから私(C)が授業してみます。この研修後でなければどこをどう工夫しているかはわからない『普通の授業=自然に流れる授業』にみえると思います。生徒のつまずいている点に直行している点に注目してください。答につまったところからです。
C;「日本語に訳して」
B;「ボブとナンシーはりんごが好きです。」
C;「いいね。答はlikeかlikesだね。likesのように動詞にーSがつくのはどういうとき?」
B;「主語が3人称単数の時」
C;「じゃーこの文の主語は?」
B;「ボブとナンシー」
C;「それは何人称?」
B;「・・・・・」
C;「文法のまとめP21をみて思い出してみて。いい?じゃきくよ。見ないで答えてね。1人称、2人称、3人称って何のこと?」
B;「1人称はI、We、私、私達、2人称はyouとyouであなた、あなた達、3人称はその他」
C;「いいね。じゃこの文の主語のボブとナンシーは何人称?」
B;「3人称」
C;「単数?複数?」
B;「複数」
C;「つまり?」
B;「3人称、複数」
C;「じゃlikeにSをつけるの、つけないの?」
B;「つけない」
C;「じゃ答は?」
B;「like」
C;「いいね。何故likesはダメなの?」
B;「主語は3人称だけど複数だから」
C;「いいよ。動詞の語尾にーS、ーesをつけるのは主語が3人称ということと、単数という二つの条件が成立する時だね。どちらか一方の条件が成り立たなくてもーS、esはつけないんだったね。主語のボブとナンシーは3人称にはなっているけれど単数にはなっていないから、この規則はあてはまらないということだね。終わります。」

 

第二条『授業が質問中心に進んでいるか?』
―生徒が誤答したとき、教師は正答を与えずその生徒から正答を引き出そうとしているか?―

授業は子どもの回路を中心として進めるべきです。そして生徒の回路を軸として授業が進められるとすれば、教師から生徒への質問の投げかけこそが、授業展開の主要な手段となるはずです。もちろん、質問中心といってもただ回数が多ければよいわけでありません。回数ではなくその内容が大切なのはもちろんです。
そもそも、質問ははっきりした意図をもってなされるものです。アマチュア教師は、授業中に自分の気分で質問を投げかけることがよくありますが、そんなのは論外です。
通常の授業でなされる質問の意図を分解すると、次の2点になると思います。
第1は答を求めること、第2は教師の解説(教師側の回路) を生徒に手伝わせることです。従って、生徒が期待される答をださない場合は、それは「まちがい、排除されるべき邪魔物、ノイズ」として位置づけられることになります。
しかし生徒の誤答の大半は「故ある誤り」です。即ち、その誤答した生徒の回路からすれば、ある種「必然性」をもって導かれたものです。アマチュア教師はその「誤答」を導いた生徒の回路を無視、軽視します。そして、その生徒の誤答回路の外側に、生徒の回路との接続を無視して「別の正答の回路」示します。
本来、その誤答は単なる「誤答」ではありません。少なくとも、プロ教師の視点から見れば「故ある誤り」であり、その誤答回路と正答とをどう切り結ぶかが課題となります。

質問の役割は、単に生徒がわかっているかどうかの確認のために行われるのではなく、「生徒の回路に、生徒と教師が協働で知を描く作業」そのものでなのです。即ち次の実況中継にもあるように、質問によって、生徒の側からすれば答えることによって、生徒自身が自己の回路を変容させるのです。質問は既にある情報が他方に移動するということではなく「知の形成=回路の変容」そのものということになります。そして、質問の目的は、生徒の回路に知を描くことですから「排除すべきノイズとしての誤り」は存在しないことになります。「誤答」も生徒の回路の特質の一つということになるのです。
したがって、質問の主な目的は、あるべき正答へ生徒を引きつけることでは決してありません。そうではなくて、誤答回路も含めた生徒の回路に知を深く、しかも速く定着させるいうことなのです。
授業の大半は教師の質問の連続で進められます。ですから、生徒側からすれば、答える作業の連続となります。そして、その中で、生徒の回路に「生徒と教師が協働」作業によって「知の回路」を描くことになります。もちろん、「協働」といっても教師の役割は「引き出す」ことであって「教える」ことではありません。教師は基本的に足跡を残さず、反応(思考)を活性化させサポートする「触媒」の役割を果たすのです。
ここで、以上のことを具体的にご理解いただくために、模擬受領を「実況中継」の形で再現したいと思います。

(実況中継) A(新人教師) B(生徒) C(私.研修指導教師)
(be動詞の使い分け(am、are、is)の導入後の練習問題の場面)
(問題) Bob and I (am、are、is)junior high school students.

(a)生徒がどこでつまずいているか(生徒の自己回路)を探る場面
A「じゃ答えて」
B「・・・・・」
A「主語はBobと私で複数だよね。複数の時は何使う?」
C「A先生は生徒がどこでつまずいていると考えてるんですか?生徒は全体の和訳ができないのかもしれません。be動詞の使い分けの規則をほとんど忘れているかもしれませんね。A先生は生徒のつまずきがどこにあるかをさぐりあてて、そこと知を結びつける必要があるわけですね。ところが先生は「are」である根拠を説明しようとしているわけです。先生のペースに生徒をつき合わせようとしているわけです。答がでない場合は和訳から入った方がいいと思います。生徒の情報が最も網羅的に得られ、しかも生徒自身の関心事でもあるわけです。」
A「じゃーもう一度。日本語にしてみて」
B「ボブと私は中学生です」
A「いいね。じゃbe動詞には何がある?」
B「am、are、is」
A「じゃーどういう時にどれを使うの?」
B「Iがam、Youがare、He、Sheがis」
A「複数の時は?」
C「知識の整理の仕方はとても重要ですね。過不足なく、しかも、しぼりこまれた形で整理すべきです。中途半端なものは、その時々で整理の仕方が変わってくるため、生徒の理解や暗記を不安定にします。先生自身どのように整理しているのでしょうか?」
A「Iはam、Youはare、3人称単数はis、複数はareです」
C「いいですけどareが2カ所でてきますね。こちらの文法のまとめではI→am Youと複数→are、その他(3人称単数でもOK)→isとなっています。生徒の答では複数がぬけおちているだけでなく、isの場合にHeやSheと答えていますので不十分ですよね。覚えるべき規則は、教師がしぼりこんだ形で、過不足なく生徒に提示する必要があります。aboutですむことではありません。じゃー続けて下さい」
A「文法のまとめをみて下さい。もう一度まとめていってみて」
B「I→am、Youと複数→are、その他→is」
A「いいですね」
C「生徒にまとめをみさせる場合はみながら答えさせてはダメです。必ずみないで答えさせて下さい。御自分でもみながら言う場合と、みないで言う場合の違いを実感してみて下さい。みないで言えば一回分刷りこまれます。」
A「じゃーみないで言ってみて」
B「(正答)」
A「じゃーこの場合は?」
B「・・・・」
A「Bob and Iは複数だから・・」
C「ちょっと待って下さい。どこでつまずいているか探る作業の放棄になっていますね。今生徒は文法の規則自体はわかっていて、その知識がこの問題に適用できない状況ですね。この段階で、生徒にどのように質問すれば問題点がわかりますか。」
A「うーん」
C「正答と生徒の回路を結ぶには質問形式で、理論的に詰めていけばいいわけです。be動詞の種類は何で決まるんですか?」
A「主語」
C「そうです。主語が決まればbe動詞の種類は決まるわけですから、主語が何なのかを確認すればいいんじゃないですか?」
A「主語はどれ」
C「できる限り生徒にとっても質問内容がどのような位置づけでなされたのか示す必要があります。A先生は何故主語をきいたのですか?」
B「主語のよってbe動詞の種類が決まるからです。」
C「では生徒にもそのように質問の必然性を示すべきでしょう」
A「動詞の種類は何で決まるの」
B「主語が何かによって」
A「いいね。じゃこの文の主語は何?」
B「ボブと私」
A「いいね。じゃーどれ選ぶ?」
B「are」
(c)正当である理由を聞くことで定着を再確認する場面
A「いいですね。じゃー次」
C「正答がでたら必ず切り返す。即ちその理由をきくのが原則です。文法問題、特に選択問題はいろいろなヒントや勘であたる場合があります。理由、根拠をきいて更に必要なら教師の方で手短かに一つのイメージとして規則を整理して繰り返します」
A「B君、理由は」
B「主語のBob and Iが複数だから」
A「いいね。じゃーD君、be動詞の使い分けもう一度言って」
C「いいですね。教師の代わりに言えそうな人を指名して、最後の整理をするのはいいですね。わかっている人は退屈している可能性がありますのでこういうまとめの場面で見せ場をつくってあげるのはいいですね。ただし生徒にまとめをやらせるとゴタゴタしそうな場合は教師が行います。生徒は実質上わかっていればいいわけです。」

第三条「これだけという過不足のないしぼりこみがなされているか?」
―しぼりこみ段階に向けて緊張感が高まっているか?―

授業にはメリハリが必要といわれます。授業のヤマ場は「ココダケ」というコア(=核)部分を示す場面です。コア(核)とは、それが理解されていれば、生徒は周辺事項を自ら再構成できる内容を指します。核心部分はできる限りしぼりこまれなければなりません。しぼりこみを行う為には大前提として教師が授業内容についての系統的理解、消化が必要です。問われれば答えられるというレベルではなく生徒に系統的に発信できなければなりません。しぼりこみは生徒の既存回路を最大限に利用して行われます。具体的には次のように行ないます。
a、既知の学習事項とのつながりを示すことで付加部分の極小化を図る。
b、生徒の経験知、常識、日本語を最大限活用する。
c、生徒にとって理論的に納得すればよいことと、覚えなければならない部分を明確に区別する。具体的事例に沿ってみてみます。

(事例)英語における受身の導入場面
A「新人教師」B「生徒」C「研修指導教師」
(実況中継)
(a)新内容を奇襲内容、経験知とリンクさせる場面
A「今日は受動態(受身)をやるよ。I love her.を受身にするよ。受動態は「~される」の意味で能動態の目的語が主語になり、主語はby以下にいくんだよ。そして動詞部分はbe動詞+過去分詞になるんだよ。じゃー受身をつくってみるよ。I love her.→She is loved by me.…」
C「ちょっと待ってください。新範囲説明でも生徒の中の既知内容(既存回路)と深くリンクさせる必要があります。」
A「でも受動態は、新範囲なので既知内容といっても思いつきませんが」
C「受動態の表現は日本語にもありますよね。日本語でなら既知の範囲で受身の文がつくれますよね。生徒の内にある既存回路は単に既習事項だけでなく、日本語、経験知etcいろいろあるわけです。それらをフルに利用して付加する内容はこれだけというしぼりこみをします。また既存回路との関連が深くなればあらたな授業内容も早く、深く定着することができるわけです。」
A「I love her.を和訳して」
B「私は彼女が好きです」
A「じゃーこれを“~される”という表現に変えてみて」
B「……」
A「C先生、教えるしかないでしょうか?これ以上引き出せるやり方を思いつかないんですけど」
C「受身表現が日本語にあり、日常的にも使っているわけで、潜在的には確実に知っているわけです。日本語レベルでは知っている表現が答えられないのは、既知内容としての「~される」という表現が今やろうとしている受身表現と同じなのだというイメージができていないと考えられます。生徒は『受身』を何か全く新しい概念のように受け取っていると思います。既に知っている「~される」という表現が今やろうとしている受身だという事をていねいに示せばよいのではないですか。まずは日本語で受身をつくってみるといいですね。」
A「B君、受身っていうのは日本語にもあるんだよね。たとえば“私は映画をみた”を映画を主語にして言ってみて」
B「映画は私に(よって)みられた」
A「いいね。その”みられた”という表現、相手によってーされるというのが受身なんだよ」
<同様の受身への日本語での言い方を少し練習して、生徒の知っている“~される”が受身であることを示す>
A「じゃーB君。I love he.の動詞部分
好きです”を受身にするとどうなるの?」
B「好かれる」
A「いいね。じゃ全体の日本語を言って。元の文と同じ意味にならないとダメだよ」
B「私は彼女に好かれる」
A「そううまくいけば私もうれしいんだけどね。元の意味は私が彼女を好きなんだよね。”好かれている”のは誰?」
C「いいもっていき方ですね。既知内容を思いださせて“好かれている”までもっていき、動詞を確定して主語をたどったわけですね。ここまでは付加している内容はゼロですよね」
B「彼女」
A「じゃー全文を日本語でいって」
C「いいですね。ここですぐに英文にいかず日本語の範囲内で、既知の範囲内で受身の日本語をつくれてしまうというイメージをはっきり作るのは重要ですね」
B「彼女は私に好かれている」

(b)新たな知を、既存の関連する知と結び付けて提供する場面
A「英語にして」
B「……」
A「うーん。どうしましょう。文のつくり方をどう導くか又どこでbe動詞+過去分詞という新知識」を入れるかちょっと分かりません。」
C「行き詰まったら問いの中味を部分に分けて既存回路との接続を考えるべきですね。A先生、文はどういう要素からできているんですか?」
A「主語、動詞、目的語、補語、修飾語ですね」
C「特に重要なのは主語、動詞、目的語でしたね。文の構成要素のどの部分が変わるかを示せば、既習内容と結びつくのではないですか。」
A「やってみます。B君この文の主語は?」
C「原則は動詞からきいた方がよいですね。主語は日本語では省略されることも多いですし、主語になる名詞は、いろいろな要素として使われますよね。その点動詞は比較的見つけやすいですし省略されることもありません。動詞をみつければ、動詞の動作をするものが主語ですよね。そして主語、動詞が確定すれば動詞部分をつくるところで新知識を教えるべきでしょう」
A「B君、動詞は?」
B「好かれている」
A「主語は?」
B「彼女は」
A「じゃー英文作るよ。主語は彼女だから」
B「She」
A「~されるという動詞部分はbe動詞+過去分詞を使います。be動詞は主語によっていろいろ変わりますね」
B「She is loved」
A「彼に好かれているということは、彼によって好かれていると考えて『~によって』という前置詞byを使います」
B「She is loved by me」

(c)一応答えが出た段階でその理由根拠を確認する場面
A「すごい。何故meを使ったの?」
B「…. 」
C「正答が出たら喜ぶだけでなく理由、根拠を聞く切り返しが必要でしたね。いいですね」
A「byは前置詞だから前置詞のついた名詞は何格だった?」
B「目的格」
A「はい、その通りです。次の問題は移ります」
C「つまづいた箇所がでてきた場合は、原則としてその問題の答をだすだけでなく、関連する内容を、まとめて全体としてしかも短時間で扱う必要がありますね。この場合、目的格の用法があいまいなわけですから、目的格の用法一般にふれるべきですね。他の格についてもまとめて復習するかは状況次第です。」
A「目的格はどういう時に使うの」
B「前置詞の次」
A「<まとめ>を開いてP、10。思い出した?どう、みないで答えて」
B「目的語の場合と前置詞がついた場合」
A「いいね。じゃー練習問題いくよ」
C「練習問題にいく前に、黒板で他の例文を書いて、今と同様指名しながら2ー3題扱った方が一気にイメージが定着すると思いますね。一気に一定以上のレベルまでもっていくと効率が良いというラインが存在するんでしたね。<当章5条を参照されたい。>」
A「わかりました」

第四条「イメージ化、右脳的処理を意識的に行っているか?」
―説明が印象深く、後に残るような工夫がされているか?―

授業内容を言葉や規則としてだけではなく、それらがイメージと結びついた時定着効率が飛躍的に高まります。このことは、現場の教師ならば誰もが経験済みだと思います。ある分野においては、右脳は左脳に比べてケタ違いの情報処理を行うことができるのはご存じの通りだと思います。
語呂合わせや年号の覚え方もイメージ化の効果をねらったものです。暗記術や速読なども多くの場合,右脳的処理を活用しています。しかし特別な訓練を要するイメージの活用は、日常の授業にはなじみません。ほとんどの生徒に適用できるイメージ化の工夫を厳しく選別しなければ、一部生徒にとってはかえって負担が大きくなることもありうるからです。では、授業で活用されるイメージ化はどのようの行ったらよいのでしょうか?
(イ)日常的経験と結びつける
(ロ)既に存在しているイメージと結びつける
(ハ)一つのまとまりをつくる事でイメージ化する
などが考えられる。
たとえば、中2方程式の原価、定価、売値、利益の文章題は下記のような表をつくって解くが、その4つの要素の覚え方に日常の経験を用いる方法があります。

〈実況中継〉
問題 「4割の利益をみこんで定価をつけたが売れないので2割引きで売り120円の利益を得た。原価を求めよ。」
A、新人教師 B、生徒 C、新人研修担当教師 〈 〉はCのコメント

〈 新人教師に表のつくり方は教えてあります 〉
A「じゃ与えられた条件を表にしてみようね。」
<正解>
A「じゃBさん式を作って」

B「・・・・」
A「利益は売値ー原価だからどうかな?」
C「表のつくり方はいいですね。表は与えられた情報を最もわかりやすく整理する意味があります。しかしこの表がいわゆる暗記の対象として、生徒の中の既存回路と別に覚えなければいけないとなると、負担が大きく定着効率が悪くなります。この表のようにまとめることが生徒にとっての既存の回路の延長上にあるように提示できるといいですね」
A「うーん」
C「じゃーちょっと交代してみましょうね。B君将来お店開くとしたら何のお店がいい?」
B「お花屋さん」
C「じゃー君、お花屋さんになったよ。まず朝起きて何する。お花の種植える?」
B「そんなことしない。お花を仕入れる」
C「そのときお金払うね。これが原価だね。1000円にしようか。〈表に書き入れる〉それから家に帰ってどうする?」
B「値段を決める」
C「いくらにする?」
B「1500円」
C「それが何に当たるの」
B「定価」
C「いいね。でもなかなか売れず明日になるとしおれてしまいそうだから、どうしても今日中に売りたいんだけど。どうする?」
B「値段を下げる」
C「いくらにする?」
B「1200円」
C「それで売れたよ。じゃーこの1200円何に当たる?」
B「売値」
C「いいね、今手元にいくらある?」
B「1200円」
C「そのうちもうけはいくら?」
B「200円」
C「どうやってだしたの」
B「1200-1000」
C「じゃーそれを原価、定価、利益の言葉を使っていってみて」
B「売値ー原価」
C「いいね。この表のつくり方は簡単だね。表に何と何を書くのか忘れたら花屋さんとか、魚屋さんになったつもりで考えてみればいいんだね。時間の経過の順番通りになっているよね。朝仕入れて原価分を使い、家に帰ってきて定価をつけ、売れなければ値下げをして売る。それが売値で手元にあるお金の一部が利益だね。『原価→定価→売値→利益の表を作り、利益=売値ー原価これが覚えるべきことだね。〈ここでしぼりこんでここだけという内容の提示を行った〉』じゃー2人づつペアーになってどういう表をつくるか、4つの項目と利益=売値ー原価を言ってもらおうね。ゆっくりと花屋さんになった気持ちで一日を思いうかべながら言って下さい。速くても偉くないよ。速く言っている人はイメージではなく暗記で処理しようとしているんだよ。イメージなら後に残るけど暗記でやってもすぐぬけちゃうよ。じゃーやって。『言え!』」(「言え」については3章に詳細があります。)
〈この問題では日常の経験知、常識として安定的に存在する既知情報(花屋さんの生活)を利用した。しかもこの情報は花屋さんという映像イメージとリンクするイメージ情報でもあり、深い定着が期待できる。「利益=売値ー原価」については、実質上は、既に生徒の中に存在する情報の駆使で処理できた。しかし『利益=売値ー原価に注目すべき』という事は生徒にとって付加されるべき新情報である〉

第五条『一気に一定の定着度までもっていっているか?』
―「うん、うん」とうなずいている生徒が複数いるか? 授業後生徒が「できそうだ」という顔になっているか?―

学習内容の定着効率を考えた場合、
(A)一定の定着度合いを越える場合と、
(B)それに届かない場合では
定着率に大きな差が出る境界(ライン)があります。言葉を換えれば、授業1回分の成果が子どもにとって本当にあったのかどうか(1回分の刷り込みが行われたかどうか)というラインが存在するのです。
即ち
(A)そのラインを越えれば、忘れる割合は40%~50%(定着率で示せば50~60%)
(B)越えなければ忘れる割合80%以上(定着率20%以下)
という質的意味をもったラインがあるのです。(ここでの数値は実感イメージに基づくものです。)
このラインを突破しない授業(Bの授業)は、生徒にとって「ほとんど何も残らないっ失敗授業」であるのはもちろんです。では、その定着ラインを時間内に一気に突破するには何が必要なのでしょうか?
それは、
(a)第4条のイメージ化の工夫や、生徒の既存情報と深く結びつけた新範囲説明。
(b)練習問題の内容、レベルの生徒に合った選択。
(c)練習問題の過不足のない量の確定。(何題が適当かということは予め決まるわけではありません。)です。

(a)、(b)、(c)をまとめて表現すれば、新範囲を深く定着させ、練習問題の質と量を生徒にとって最適なものにするということです。最適ということは先の定着ラインを越えるという事と、時間効率がよいということです。
平均的な授業でいえば、「導入」から「口頭での問題演習」まで15~20分位になります。この段階での問題演習は必ず口頭で行います。数学の計算や文章題も黒板を利用すれば生徒は口頭で済みます。
なぜ口頭で行うべきなのでしょうか?
それは、導入直後は各種の誤りが続出し、しかもそのうちのかなりの部分は生徒に共通の誤りであり、問題内容にとって余り意味のない見当違いの誤りもあるからです。従って導入直後の練習問題は口頭で素早く対処するべきなのです。
口頭での練習問題が終了し、一応の理解が得られたら、仕上げとして1~2問を実際に解いてもらいます。理解度の高いA層向けの予備問題も提示しておきます。この時間帯は教師にとって忙しい場面です。生徒間をぐるぐるまわり、C層中心に積極的にサポートしていきます。
ここでは授業説明をもう一度くり返すつもりで積極的にサポートしていきます。この場面での練習問題は、理解の度合いを計るテストではありません。授業内容説明の一部として位置づけられるべきで、一部の生徒に、実質上答を教えることになってもかまいません。
C層が終了するか又は終了しなくても、サポートにより実質上理解していると判断された段階で「止め」となります。そして指定された問題を黒板で生徒と教師で解いていくことになります。その際A層向けの予備問題も着手している人がいれば授業で取り上げます。
ここまでで、通常は先の「定着ライン」を突破するはずです。生徒の情報回路の中に安定的に定置されるのです。その際、A層を退屈させないように、テンポと内容に配慮するのはもちろんです。

第六条 『全員参加型授業になっているか?』
―実質上わかる人主導の授業になっていないか?―
教師が真剣に上記の問いに答えようとする時、習熟度別クラス編成は絶対条件である。現在の子どもの理解の速さ(理解力、理解度とは直ちに言いかえられない)の差異は教師の力量で対処可能なレベルをはるかに超えています。勿論上記の問いをはずして一部の生徒を犠牲にすれば、クラス分けなしに授業は可能です。 しかし習熟度別クラス編成にしたとしても全員参加という課題が自動的に達成されるわけではなく、ある種のスキルが必要になります。

( a) 「速いスピードでゆっくり進む」
全員参加ということは全員が(特に指名された子ども以外の子も)その問題を考えているということです。授業が静かであれば良いわけではなく、生徒が考えている状況を維持する必要があります。その際、ポイントの一つはスピードです。
一定以上のテンポで生徒に発問がなされなければなりません。しかしスピードが速いということは、必ずしも授業内容を速く進めることではありません。
「しぼりこまれた重要ポイントを速く繰り返す」のです。生徒のほとんどの層にそのポイントが 「あっ わかった!」という形で染み入ったかどうかは、指名して反応をみなければ最終的にはわかりません。 「教えたはず、説明したよ」は教師の自己満足であり、教師はどの程度浸透したかを判断する義務があるわけです。多くの場合、一定以上のスピードでなければある層の生徒は退屈してしまうのです。

(b)「授業での指名はみかけ上席順であるが実質上はB層、C層のチェックに主要な 関心が注がれる」
順番に指名しながら関連質問をB層、C層振るわけである。A層の出番は教師が果たすべき解説の一部を代行させることである。勿論代行といってもA層にはラフな形で説明してもらえばよく、詳細な説明は教師がひきとって、B層、C層にわかるように行う。

図式化すると次のようになる

最終的にはA層が退屈せず(感情的に退屈しないという意味ではなく、その授業がA層にとって意義があるという意味である)、C層が理解できる綱渡りのような授業を教師は行うこととなる。

(c) 「授業時間中にやらせる練習問題は、必ず予備の問題も指示する」
授業時間に練習問題を生徒に解かせる場合、当然消化時間の差が出てくる。その差を埋めるためA層用の予備問題も与えておき、解説授業ではその予備問題も扱う。但し予備問題をやった人について個別に処理(みてあげる)できた場合は解説授業で扱う必要はない。

(d) 「子どもとルールを作る」
「授業が理解しにくい(できない)のは教師の責任、授業を聞いてないのは生徒の責任」という約束を教師と子供でかわします。教師はわからない問題は授業外でもわかるまで教えるという意志を本気で示し、生徒は授業に真剣に取り組む責任を負うわけです。真剣かどうかの基準は、やっている問題がどれなのかがわかることと、他の生徒の発言や教師の言葉を聞くということです。理解できているかどうかは問わない、きちんと聞いているかどうかが子供に問われる義務というわけです。
具体的にはあてられた子が何番の問題を扱っているのかわからなかったり、その子の前の子が何といったか(正確でなくてもいい)全くわからない場合は、その子のルール違反ということになる。ルール違反の場合は原則として緊張感を高めるためしばらく立ってもらうことにしている。立たせる際は「君がわからない」から立たせるのではなく「聞いていない」から立たせるということを何度でも説明する。教師と生徒がお互いの義務と責任を明確にすることで授業に背骨が通る。背骨なしに全員を集中させることは不可能である。

( e ) 「初期消火」
教室内がうるさくなるにはいくつかの段階があるものです。
まず授業内容を考えなくなる。ここでチェックされなければ授業以外の事  (いたずら書き、シャープペン回し、よそ見)を始める、ここでもチェックが入らなければ他の人を巻き込んでのおしゃべりとなるわけです。教師は第一段階でその子に発問し授業に引き戻さなければなりません。 (第Ⅲ章「授業に空白をつくらない工夫」を参照されたい)

以上のようにまず教師と生徒のルールをつくり、予備問題などで授業に空白を作らず、集中しなくなった子にはすぐ質問して授業に連れ戻す配慮が必要です。そして最終的には教師はA層が退屈せず、 C層が理解できる「綱渡りの授業」を実現しなければなりません。全員が集中する授業とは、そのような内実を持った授業を指すわけです。
第七条 「他人を傷つける言葉に敏感に反応しているか?」
―― いじめにもプロセスがある。プロセスの初期段階での対処が最も効果的である ――

授業では生徒が自分の考えを自由に発言できる空気の質を維持する必要があります。そのような空気の中でこそ、生徒は余り自信のない自分の回路(自分の考え)を他者の前で表明できるからです。そして、そのような空気の中でこそ、生徒は「正解の回路」を外的に受け入れるのではなく、自分の回路への授業内容の組み込みに執着できるわけです。。
いじめや、遅れている子を嘲笑するような雰囲気のある時、生徒は自己(回路)を開放しないでしょう。いじめなどの問題は人権や人格形成と関わるだけでなく、授業そのものの質に関わっているのです。

○ ”「いじめ」防止には初期消火がポイント”
いじめは社会的要因を持っており、その要因が再生産されている以上いじめもなくなりません。(詳細は第4章を参照されたい。)
いじめが蔓延している現状(いじめの当事者になったか、または見た人は50%を超える)を考えると、全ての教師が何らかの形でいじめの対応を迫られていることになります。
しかし、いじめが発生してからの対応は困難であり、対処できる教師は限られており、対処システムも不十分です。では教師の大半を占める「普通の教師」はいじめにどのように対処すべきなのだろうか。いじめ対処の有効なスキルは存在するのであろうか。
いじめ行為には、通常そこに至るプロセスが存在する。学校や塾でできるいじめへの対応で、もっとも効果的なものの一つはいじめの芽を摘む、初期消火を行うことである。通常ひどいいじめには乱暴な言葉使い、悪口、からかい、無視などの現象が伴う。授業中にもその徴候は表れるし、休み時間には一層わかりやすく表れる。「デブ、ブス、チビ、キモイ、ウザイ、バカ、イラナイ 」等の人格否定につながる言葉に敏感に反応することが重要です。そのような言葉を許す空気の質がいじめの温床となります。
一層重要なのは、そのような攻撃的と意識されて発せられる言葉以前の段階である。攻撃的な意識は存在せず、「気軽に」発する「とげのある言動」に敏感に反応することが重要です。
(事例)「卓球台での遊びの順番の決め方について」
当塾には卓球台が一台あり、生徒は延長授業に入る前の休み時間に卓球を楽しんでいる。休み時間は異学年が重なることがある。先日、台の横を私が通り過ぎようとした時下級生が順番待ちをしていた。もしかしたら上級生が優先的にやっているのかもしれない、と思い上級生に声をかけた。「君達順番はどうやってきめたの?」「なんとなく」「ちゃんとジャンケンで決めなくちゃね。特に上級生は気を遣わないと下級生は遠慮するからね」顔の表情をみて、その上級生が『あっいけない。まずかったな。』という表情をしていたのでその場はそれで終わった。もし不満そうな表情であれば、時間をとって話し合うことになります。
一見小さなことのようであるが、非常に重要なことだと思います。上級生が下級生に「ジャンケンで順番決めるぞー」と言う空気の下で「いじめ」は起こりにくいものです。

(事例)各種トゲのある言葉への教師のコメント
○ 生徒が会話の中でキモイ(気持ち悪い)という言葉を使った場合、
「キモイというのは誰を指しているのかは知らないけど、相手の人格の全否定のニュアンスを持っているよね。~君、君がキモイと言われたらどう?イヤじゃない? 他の人も聞いてよ。軽い気持ちで使う場合もあると思うけど、キモイ、ウザイ、バカ、イラナイ、などの言葉は、冗談ではすまない後に残る言葉だよね。お互い言われたら不愉快なんだから、使わないようにしようね。」

○ 友人の悪口を言い始めた場合
「神様でもない限り完璧な人はいないよね、つまり欠点をみつけようと思えば必ず、みつかるよね。僕もたくさんありすぎて困る位なんだけど。~君、君にも欠点はあるよね、皆が欠点を言い合ったら世の中暗くなっちゃうよね。たしかに 『他人の不幸は蜜の味』という言葉もある位、人間は他人の短所や不幸を見て
『自分は違うんだ』という優越感を味わいたいという、卑しい気持ちがあるんだよね。ほとんどの人が持っている気持ちだけれど、なるべく押さえるべき、なくすべきものだよね。美しくないもんね。」

以上のように「他者」を傷つけることを許さないという基準を本気で示す機会はたくさんあります。他人の悪口を言わない空気の中でいじめは起こりにくいものです。
勿論教師の言葉が空疎に響いて、子供の心に届かないかもしれない。しかし教師の言葉は出発点にすぎません。重要なのは教師が教室の空気を言葉通りに維持していけるかどうかです。他人を傷つけないための具体的約束がクラスの空気として維持される時、その空気が中、長期的にジワジワと生徒に影響を与えるわけです。そしてその空気の質の維持が教師への信頼をうむはずです。
上記の例にはおさまらない暴言(「センコー」「ウルセー」…)のあった時は授業外での個別対応が必要です。その子には授業後(又は授業中)話し合い、場合によっては、他の教師や保護者の協力も得て最終決着までもっていくことが重要です。
その際重要なのは「授業を守りぬく」という学校(塾)全体の決意です。暴言をはいた生徒が次の授業でそれを繰り返すようであれば授業は「暴言をはいてもよい」という基準を受け入れたことになり、生徒と教師の信頼関係は根底から崩れ授業は崩壊します。
授業成立の具体的基準を学校(塾)全体として生徒に明示し、それを守りぬくことが重要となります。勿論その基準は生徒への一方的管理の強化であってはならないのはもちろんです。
教師のほうも、生徒がわからないのは自分の責任として“教えきる”覚悟を示す必要があります。覚悟は具体的でなければなりません。既にかなりの学習塾では実施している“授業外補習”を学校もシステムとして取り入れるべきと考えます。
以上、生徒と教師の信頼関係を築くには、広義のいじめ問題は避けて通れない課題なのです。

小田 清