このままではいじめは止まらない!
「いじめの特徴と原因」
1.「最近のいじめの特徴」
いじめは昔からあったといわれる。他者への優位性を確認して快感を得るという抽象的レベルで考えれば昔のいじめも最近(最近といってもここ20年位)のいじめも同じということになる。しかし、この間ののいじめには明らかに以前のそれとは異なる特徴があると考えられる。
最近のいじめの主な現象的特徴は、共通認識の得られる範囲で考えると次のようにまとめられるだろう。
1.集団で個人をいじめる。
2.執ようである。
3.いじめる側に「罪悪感」が稀薄である。
4.半ば公然と行われる場合が多い。
昔のいじめは「あっいけない、やりすぎた」という歯止めがあった。現在のいじめは執ようで容赦ない。「いじめ自殺」を未遂で終えた子の家に押しかけて「いじめ自殺野郎!」と追い打ちをかけるのが現在のいじめの執ようさであり、罪悪感の稀薄さである。又昨今報道された教師の「いじめ加担」は二つの事を示している。第一に「いじめ世代」は既に大人にもなっており、大人になってもそのいじめ要因を引きづっている可能性、第二に「いじめ」の半公然性である。教師がそのようないじめに加担あるいは主導するということは、クラスの空気がそれを許容するような質のものであったという可能性である。このいじめの『公然性』はいじめへの拒否感覚の「鈍さ、マヒ」のまん延ということである。
2.「いじめの要因は何か?」
―他者の痛みを感じとる能力が全体的に低下しているー
最近のいじめは、典型的には、いじめへの拒否感覚の薄い状況の中で半ば公然と執ように実行され、いじめる側には罪悪感が稀薄という風に描くことができるだろう。そしてこれら最近のいじめの特徴の共通の背景と考えられるのは「いじめへの拒否感覚の希薄さ」である。
いじめへの拒否反応が薄いということは現在の子供達が一般的傾向として他者の痛みを感じとる能力が低下している事を示唆している。この「他者の痛みを感じとる能力の低下」はいじめる側の執ようさや、罪悪感の稀薄さ、半公然性の共通の背景と考えることができる。即ち最近のいじめの現象的な過激さ、執ようさ、いじめる側の罪悪感の稀薄さ、いじめのまん延の要因は子供達(もう一部は大人になっている)の残虐性が高まったというより、「他者の傷みを感じとる能力の低下」にあると考えるべきであろう。
ここで重要なことは、いじめに何らかの形で関わった生徒の数が50パーセント以上だということである。即ち、大多数の生徒は、いじめる側、いじめられる側、いじめを見ている側のいずれかに属しているのである。いじめの蔓延現象である。
したがって、『他者の痛みを感じ取る能力の低下』は、一部例外的にみられるのではなく、かなりの比率の子供がそのような状況であると、推測されるのである。ではなぜ多くの子供の『他者の痛みを感じ取る能力』が低下してしまったのか。
3.「他者の不在」
「他者の痛みを感じとる能力の低下」が昨今の持微的いじめの背景にあるとすれば、更にその原因は何かということになる。その際この「他者の痛みを感じとる能力」は、生まれつき「ある」ものではなく「育つ、育てる」ものである視点が重要である。
漠然と語られる「人間性や優しさ」もその根本には他者を自己の内に深く受け入れ、他者を深く感じとる能力のある事を前提とする。この能力が所与の「あるもの」ではなく「育つ、育てる」ものであるとすれば、この能力を育てる(育つ)条件は何かということになる。(注意) ここではいじめとの関係で「他者の痛み」と表現しているが厳密には他者の「痛み」だけでなく「喜び」等他者の意感情全般を感じとる能力の低下ということである。更に、他者の存在の重みが自己意識を深めると考えれば、「他者の不在」は、自分自身の存在の希薄さ(自殺とも関連)とも関連すると考えられる。
4.「他者の形成の条件は何か?」
-土空間の喪失と遊びの喪失―
自分の中に確固とした「他者」、実体のある「他者」を形成するにはどんな条件が必要か?昔の子供の生活の一部を思い描いてみよう。子供は学校の行き、帰りに舗装されていない土の道を歩いていた。土には植物、虫、小動物等の命あるものが宿る。したがって意識して求めなくても、これら生物との豊富な接触機会があった。家に帰って来れば、カバンを玄関に放りだして遊びに出る。
遊ぶ場所は主に近くの原っぱか、家の近くの道路(土の道路)である。家の近くで2~3人で遊んでいると、近所の子にもそれが見えるので、だんだん人数が多くなる。近所の子が集まるから、異年齢集団での遊びとなる。集団での体を使った遊びや、メンコやビー玉など物のやり取りのある真剣勝負もある。
ここでは「葛藤を伴う濃密な人間関係訓練としての遊び」が成立したのである。小さな子は遊びの仲間に入れてもらう事を切望した。一人前に扱ってもらえなくても遊び仲間に入れてもらえることがうれしかった。荒い言葉で罵倒されても、集団全体を包む楽しさ、さわやかさがあった。これは集団構成員(異年齢の子供達)が度をすぎた攻撃をしない、そのような攻撃が生じても、直ちに是正される(すぐ謝るなど)雰囲気があったからであろう。
このように子供は、学校への行き帰りの土の道や、家の回りの土空間の中で豊富な生物に取り囲まれていた。必死で逃げるアリを追いかけて、手でつぶしたりする。アリや蜂に刺されたりもする。花も踏みつぶしたり、時には一瞬「きれいな色だ。妙な形だな。」と感じたりもする。生命(いのち)あるものとの豊富な接触機会が子供に「生命感」を育くむのである。生命あるものとの豊富な接触が自己の外の生命あるもの(=他者)を自己の内に実体として築いていく。
また子供は、けんかや様々な葛藤など、濃密な人間関係を伴う「集団遊び」を通じて人間としての他者を自己の内に築いていくと考えられる。
『植物、虫、小動物などの生き物との豊富な接触機会』、そして『人間関係訓練としての集団遊びの機会』の喪失が、子供の中での『他者』の形成を妨げているわけです。そしてこの二つの喪失の背景には、都市化に伴う『土空間の喪失』とゲームやネットの普及、塾やお稽古事で子供が忙しくなっていること等に伴う『子供の生活スタイルの変化』があるわけです。
「あそび」には『三間』が必要といわれます。『時間、空間、人間』です。このいずれもが失われることで、子供の世界から『戸外での集団遊び』がほとんどなくなってしまいました。意識せずに享受していた大切な物は、簡単に失われていくわけです。
5.「擬似体験(間接体験)の肥大化!」
生物との接触機会の喪失と遊びの喪失以外に「他者の不在」を助長する要因があります。情報化社会の進展に伴い、ケイタイ電話やネットによって直接の人間との接触なしに、情報をやりとりする事が可能となりました。実体としての他者を形成しなくても、他者と直接接触しなくても、一応「事足りる」条件が整っているわけです。
米国では18才までに暴力シーンを20万回、殺人場面を18万回みるといわれる。日本でもそれに準じた数値と考えられます。他者が実体として築かれない状態の子供に、洪水のように刺激的な擬似体験が注入されているわけです。テレビやゲームでの場面を模した青少年犯罪がでてくるのは必然ですらあるわけです。子供はいつか見た場面を再現しているのです。
6.「食の乱れがいじめの要因になる!」
現在の食育が主要に子供の体との関連で語られる場合が多いようですが、心のあり方とも密接に関連していると考えられます。やや古いのですが下記のデータをみていただきたい。これは当時広島県福山市女子短期大学教授の鈴木雅子さん(病態栄養学)が中学校1年~3年の男女生徒1170人を対象に食生活のあり方と生活意識、不定愁訴、いじめ等との関係をアンケート調査した結果です。食生活のよいグループAから悪いグループEまで、5段階に分類してアンケートをとったものです。
「いらいら」については、Aグループでは男女とも3割前後なのに、Eグループでは9割以上になっています。「いじめている」は自己申告しにくい項目ですが、男子ではAグループではゼロ、Eグループでは4割となっている。女子はAグループで3パーセント、Eグループで17パーセントと5倍以上になっている。
食生活の悪いグループは、良いグループに比べ「自殺したいと思ったことがある」割合は2倍(男子)、7倍(女子)になっています。
更にストレスが高まっていることがいじめの背景にあるのではないかとの指摘もあります。その当否の判断はできませんが「ストレスへの抵抗力の低下」は確実に進行しているようです。現在の食生活がストレスへの抵抗力を強めるビタミンB群やカルシウム等のミネラルの不足する食生活になっているからです。周知のように、ビタミンB群は胚芽米、玄米、麦、豆、胡椒等に多く含まれ、カルシウムは小魚、海草、乾物、牛乳、青菜等に多く含まれます。いずれも現在の西洋化した食生活がおしげもなく捨ててきたものです。現在の食生活が欧米化しており、又アンケート結果でもこのような結果になっている以上「食生活の劣化」はいじめの主要因の一つと考えるべきでしょう。
7.「いじめは構造的要因を有し、再生産されている!」
先にみたように、いじめの主要因は都市化や生活様式の変化に伴う構造的なものである。特殊な家庭環境等にその要因を求めると処分せんを誤ることとなる。いじめが再生産構造を有している以上、その対処も恒常的なシステムとして存在しなければならない。従来のいじめ対応がもぐらたたきのように、成果を生まなかったのは、いじめを例外的な、特殊な事象ととらえて、その場しのぎの個別的対処で事足りると考えたからである。結果として、いじめ対応へのKNOW HOWの蓄積もなされてこなかった。II「いじめへの対処提案」
いじめにも程度によって恐喝や、暴力等の犯罪的なものから、主に言葉や仲間はずれ、無視等相手が苦痛を感じているとわかっていて意識的に行われるもの、更にほとんどそれと気づかず遊び半分にやっているものと三分類できるであろう。
いじめへの対処の視点は中長期的には「他者」を子供の中に実体あるものとして構築していく対処であり、短期的な対症療法としては、いじめ行為を人権侵害として「いじめられている人」を直ちに救うシステムを構築することである。
1.中長期的対処
a 「農業を授業に本格導入する」
現在の子供達は、以前はその意義を目覚することなく得ていた”生命あるもの”との豊富な接触機会を奪われている。土の道路や原っぱの復権が困難であれば学校できっかけづくりを行うべきでしょう。一部学校で実施されている農業体験を本格的に全国の小中学校で実施する。種まきと収穫のいいとこどりだけではなく、雑草の駆除や肥料やり等「責任をもって生命を育てる」のである。失敗も良い学習である。学校の近くに農地のない場合は校庭の一部を農地に変える。
b 「小、中学校行事の企画運営を子供にまかせる」
異年令集団による集団遊びの激減による、人間関係訓練の場の喪失を補うため、学校の行事の企画、営営をなるべく子供達に任せる(失敗でもいいから思いきってまかせる)。教師はサポーターにまわる。サポーターは子供達の濃密な人間関係の場ができるよう工夫、アドバイスする。
c 「遊び復権のモデル地区づくり」
遊びの復権は容易ではない。遊びには「三間」が必要といわれる。時間、空間、人間である。遊び復権に取りくむNPOや、体験広場等の事例を参考に文部科学省はモデル地区を募集して「遊び復権KNOW HOW」を構築して全国に普及すべきである。保育園、幼稚園、学童保育などにおいては「集団遊び」を教育的観点から位置づけて、重視すべきである。
d 「休日の校庭の一部を地域に本格解放して遊びの拠点とする」。
地域のボランティアに管理を委たくして学校を地域の遊び拠点とする。
e 「暴力、殺人シーンの映像の自しゅく」
子供の触れることのできるテレビやゲームにおける、暴力、殺人等と映像について専門家会議の答申に基づき現状より更に厳しい自しゅく基準をつくる。
f 「食育とリンクさせる」
現在の食生活がストレスへの抵抗力を低下させる性質をもっています。そこで現在進められている食育をいじめへの主要対策の一つとして位置づけるのです。先に提案した農業体験と併せて推進すれば効果は大きいと考えられます。自分達の作ったものを給食で食べることで、食べ残しが激減したとの報告もあります。給食は食主活悪化をくいとめる最後のとりでであり、給食を核とした食育の推進はいじめ対策としても重要です。
2.「いじめへの短期的対処システムの構築」
(a) 「いじめ問題を最終決着までもっていく恒常的システムをつくる」
いじめを例外的な、本来あるはずのない、あってはならない事象ととらえるのではなく構造的要因を有し、再生産構造を有すものととらえるべきである。とすれば、いじめへの対処も恒常的なシステムとしての対応が必要である。いじめは、はじめから複数のチームで対処すべきである。初動が担任まかせでは混乱する場合もあるし、担任の心理的負担も大きい。自分の力で解決しないと恥であるという気持も働く。
「担任プラス経験のある教師」のチームで初期段階から対応し、その対処情報も教員間では共有されなければならない。それで対処ができない場合は、カウンセラーや教育委員会とも連係したより大きなチームとしての対応が必要となる。 重要なことは対処をあいまいにせず最終結着までもっていく体制を常設システムとして持つことである。常設のいじめ対策チームがあり、いじめを最終解決まで持っていくという覚悟を示すことがいじめ対策の出発点である。
学校関係者が落ちついて、隠そうなどという事にエネルギーを使うことなく対処するには、システムとしての対応が不可欠である。要因が構造的であれば、これからもいじめはおこるものであり、その対処KNOW HOWの蓄積が重要課題となる。そしてシステムができれば、いじめの徴候について保健室の先生、部活担当教師、担任外教科教師そして生徒が情報を提供しやすくなります。
(b) 「いじめはいじめる人がいるから生じる!」
ーいじめる側への対処を柱としたシステムをつくるべきであるー
Ⅰでも触れたように、子供をとりまく環境が子供自身の中に、十分に「他者」を築けないものになっている以上、いじめる側といじめられる側が次々に入れ変わっていくのも当然である。しかし具体的「いじめ」においては、その時点での「いじめる側」と「いじめられる側」が存在する。いじめへの対応はいじめる側の指導に主要なエネルギーが注がれなければならないし、対処の柱もいじめる側への対処が主要なものとならなければならない。
いじめる側への対処をぬきにして、いじめられている子に「誰かに相談しなさい。がんばりなさい、学校に行かなくてもいいのよ」と呼びかけても彼等には空疎に響くであろう。いじめられている側にとっては「そんなおしゃべりよりも、いじめる子がいじめを止めれば、明日からでも元気になれる」ということだろう。
「教育再生会議」で、いじめる側への対応の方向がでたのは好ましいことである。「いじめられている側」に犠牲を強いるような対処は直ちに改めるべきである。最終的にはいじめる側への出校停止も含め厳重な対応も具体的選択肢とすべきである。
「学校は教育の場だから子供を突き放すようなまねはできない」という主旨の意見もある。勿論突然の出校停止などあるはずもないが、関係者の努力が実を結ばず、「いじめ」の事態をなくすには出校停止しか方法がない場合は、ちゅうちょすべきではない。
教育者としての面子よりもいじめられている子の痛みの除去を優先させるべきである。いじめの訴えがあったその瞬間以降、そのいじめ行為は一切許されないという気迫とシステム的保証こそ現在求められているものである。証拠が不十分でも、どちらがうそをついているか判断を下す。ここでその判断にミスがあった場合のリスクを負ってでも短期間(1ヶ月以内)にいじめがあるのか、ないのかの判断を下すことが重要であるAがいじめられている、Bがいじめている人です。
いじめの事実ありとの判断 いじめの訴え
Bの別教室授業とカウンセリングの義務化。この対応で事態(いじめ)が変わらなければ出校停止の対処となることを示す。
事態(いじめ)が再発すれば出校停止。カウンセリング指導を受けながら自宅学習となる。
(簡略図式)
いじめの訴え チームA(担任+α) チームB(全校的対応のできるチーム)
BにAと関わらないよう指導 別教室授業 出校停止
解決 解決
(c)「リスクを誰かがとらなければいじめられている子は救われない!」
いじめに関係するのは、いじめている人、いじめられている人、いじめに気づいている人、教師(学校、教育委員会)である。先日「教育再生会議」有志より「いじめを見て見ぬふりをするのはいじめに加担するのと同じである」という主旨の提言がなされた。そのような第三者が動かないのは「いじめを止めたいという気持ちがそもそも存在しないか、止めたくても止められない事情があるか」いずれかであろう。後者であればその事情への対処が必要であるし、前者であれば更に抜本的対応が必要である。
「教育再生会議」は、学校(教育委員会側)に、いじめる側への厳しい対処を要求している。いじめる側への対処に焦点をあてたという意味では一定の前進である。
しかし、いまだ「真にいじめられる側に立った」ものとはなっていないと考えられる。いじめの報告があった段階で、チームとして対処し、長くとも2ヶ月以内に事態を解決する「結論(処分等)」をだすべきである。そうすれば、いじめられている側が転校せざるを得ないような事態は起こらないであろう。証拠が十分でないとしても、学校(教育委員会)側がリスクをとって結論をだすのである。
いじめていると思われる側がいじめを認めないで、処分が実施された場合 、 訴訟等のリスクがある。学校(教育委員会)側がそのリスクを覚悟しなければ、いじめはあいまいな対処で終わる可能性がある。その場合、しわ寄せはいじめられる側にいくことになる。
現在のいじめ対処が進まないのは、この点が徹底していないからである。そして学校側のいじめている側への教育的対処にもかかわらず、いじめが止まらなければ「出校停止」処分もためらうべきではない。それが教育者としての「敗北」を意味するとすれば、敗北したのである。
「出校停止」を躊躇するということは、「教育者としての敗北」をおおい隠し、教育者としての面子を維持するために、 そのしわ寄せをいじめられる側に押しつけることになる。これこそ教育者としての真の敗北ではないか。「リスクをとっていじめられている側を守る」ことが具体的いじめ対策の基本方針となるべきであろう。
小田 清